emotionalか、それともfunctionalか

先日、さいたま芸術劇場にてジェローム・ベル『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』を観てきた。淡々と流れるポップソング、そのサビの歌詞を受けて踊る30名弱の出演者群。公募から選出された彼らは、ダンサーから役者、歌い手と生い立ちは様々、老若男女と年齢性別まちまち。ばらばらな出演者による身体表現にもかかわらず、演目としての構成がとてもしっかりとあって、僕は思いのほか楽しめた。

帰り道、会場で久しぶりに出会ったK女史と食事へ。「コミュニティダンスとして秀逸」という彼女の話を、餃子の王将で安酒なめなめ聞く。プロアマ隔てなくからだを動かしてダンスを楽しもうというのがコミュニティダンスの主旨で、70年代半ばから活発になってきたものらしい。恥ずかしながら初めて聞く言葉だったけど、伊藤キムさんのおやじカフェがそうと聞いて得心。

当時の英国のコンテンポラリーダンスは、バレエと違って観客が少なかったため、多くのカンパニーが地域での教育活動に取り組むことで普及を図り、観客を開拓しようとした
参考:「コミュニティダンスの基礎知識1 – 英国のコミュニティダンスの歴史と現状」

昨今の日本において、コミュニティダンスに限らず「ワークショップ」と謳った参加型のイベントが身近になってきているように思う。なるほど、表現の日常化によって広く作品を楽しむスタンスが観客に生まれそうなのかもしれないと、終演後の会場の拍手の厚みを感じて得心した。海外からやってきた作品といった色眼鏡を外しても、文句なしの盛況ぶりだったと思う。

なによりも安定感があった。公募で出演者を集めましたという触込みの作品は、たいてい演者群の統一性の無い身体クオリティが目について、上演途中で観覧意欲がそがれる事が多い。苦心の末の表現を眼にできるならまだしも、学芸会的ノリで押し通そうとする作品に鼻白むこと少なくない。

その点、本作の演者の動き(振る舞い)はいたってシンプル。例えばデビットボウイの「Let’s Dance」が流れれば歌詞通り各自ワラワラッと踊るといったもの。役柄からの演技ではないシンプルなルールだから、演者さん達にとってリハーサルに取り組みやすかったのだろう。舞台に立っている彼らは、作品に十分な信頼を寄せているように見えた。作った笑顔が嫌味じゃない。

僕ら観客にも「音楽の歌詞によって場が動く」というシンプルなルールが丁寧に示されている。そのルールが会場になじんだ頃合いに、ぽろりとパラダイムシフトが混ざるのは巧みだ。演者さんたちを押しのけて、音と光を操作していたスタッフが舞台に上がってこれみよがしに踊るのは、もう演出の勝利としか言いようがないでしょう。

そんな一癖も二癖もある演出がパズルのように全編にわたって編まれている。特筆すべきは、叙情性の無いところ。装飾の無いプレーンな劇場空間。音楽と照明、そして身体という舞台たりえる三大要素を並列に抜き出して、それら主客の倒置をストイックに時間軸に配置してある。裏返すと、演者の動き、音楽、照明すべてに道理があるようにも観えてくる。僕は、その明快な構造自体が作品の核と感じて、心ゆくまでその仕組みを楽しんだ。

とはいえ、全く面白くない人達も居るだろうと思う。ハイアートを求める人には全く受け付けられないだろう。

表現を楽しむ姿勢は、2つある。ひとつは表現の主語(舞台作品であれば特定の演者)に好意を寄せて、その個人の一挙一動に没入する楽しみ方。もうひとつは、体験した空間と時間を振り返り、俯瞰した視点で意図の総体を感受する楽しみ方。そもそも「楽しむ」とは、僕ら第三者が勝手な想像力を膨らませることで、その膨張率の大きさが魅力のバロメータである。想像を高みに持ち上げるテコを、好き嫌いといったemotionalとするか、時間や空間創造によるfunctionalとするか。

本作ジェローム・ベル『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』は、emotionalな視点では全く面白くないだろう。演者が醸し出す叙情性はユーモアにフタをされて、いわばオマケのようなものだからだ。見所は作品全体のギミックであり、演者各人のテクニック上手下手じゃない。「ダンス作品なのだから身体のしなやかさを観に来ました」という観点では全然楽しくないだろうし、演者の中から自分の好みの誰かを探すことさえ難しかったと思う。

とはいえ、諸手を上げて大絶賛というわけでもない。もう少し発芽のゆとりがあったようにも思う。一緒に行ったGRINDER-MANの伊豆牧子は、フランスそして韓国で本メンバー(フランス人)による同作を観ていた。彼女からすると物足りなかったみたいで、「もっと演者は個を出すべき」「オーディションはしたのか?」の苦言を聞く。確かに演者の内の数名は、舞台にあがること=カッコつける事のように認識しているようにみえた。それは勘違いだ。

僕としてはひとつ注文をつけるのであれば、Queen「The Show Must Go On」が流れる最後シーンにこそ、それまでの我慢を昇華して欲しかった。Queenの「The Show Must Go On」といえば、モーリス・ベジャールの「Ballet for life」のラストソング。カーテンコール(4分20秒あたり)のベジャールの父性でねじ伏せられてみたいのだ。