日々のほとばしりから市井の美味そして旅のしおりまで
2019年9月3日 16時18分
昨年12月からYouTubeへ動画配信をはじめて約9ヶ月が経ちました。インターネットにおける身体表現の実験の場、それをDance Brew(ダンス・ブリュー)と名付けて、毎週火曜日13時にアップロードしてきたこのシリーズは、本日まで合計40作品にのぼります(本編24作品/Behind the scenes16作品)。
ここでお知らせがあります。おかげさまで、Dance Brewは次のステップへ進むことになりました。これからの展開に備えるため、本日からYouTubeでの配信を一旦ストップします。
これまで応援してくださった皆さま、まことにありがとうございました。近い将来、たぶん9月下旬もしくは来月10月から、あらたな形でダンス動画をお届けする予定です。
これはインターネットらしい進撃だと思っています。YouTubeで発表していた映像は、だいたい数百の視聴数でしたが、次は数万から数十万、はたまた数百万の大海原です。
せっかくの一区切りなので、なぜDance Brewをはじめたのか、そのきっかけと目的そして展望を表明します。どうぞ最後までお付き合ください。
なお、これまで毎週配信を続けてこれたのは、出演してくださったダンサーの皆さんあってこそでした。心から感謝します。晴れの日も雨の日も、朝早くから晩遅くまで、計画と勢いがぶつかりあいながら無我夢中で駆け抜けた9ヶ月間でした。
ありがとうございました。そして、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
これまで出演くださったダンサーの皆さん
天野悠二、伊豆牧子、松田真一、西嶋美幸、住吉由美、三橋俊平、坪井慧士、田中俊太郎、杉本音音、黒坂建太、甲斐美和、須田智子、落合将人、小山柚香、食野たえ、後藤かおり、雷斗、林田大翔、吉田岳史(敬称略)
2018年12月18日に、はじめてのDance Brew「Reverse」をアップした。冬の日差しがまぶしい、ぽかぽかとした陽気の静かな昼下がりだった。YouTubeの管理画面から「公開」を選び「保存」をクリックしたあの瞬間は、いまでも憶えている。広大なインターネットの海に漕ぎ出した興奮で、ぶるっと身震いしたんだ。
透明なガラスの板が生まれる17世紀まで、水槽は存在しなかったし、魚を愛でる嗜好もなかった。変化は、1851年のロンドン万国博覧会におこる。会場でアクアリウムが公開されたのをきっかけに、生態系を操作するという全能感が一般化する。人々の欲望は観賞魚という需要を喚起し、稀少種という価値のもと、生命の商取引を新たに生みだした。
こんな世界に、僕らは生きている。
Dance Brewの目的は、インターネットでの身体表現のありかを開拓する試みである。ガラスの板が発明されて人々の嗜好が変化していったように、インターネットの日常化によって、僕らの身体が作りだす表現は転換期をむかえるのではないだろうか。
インターネットは、いまや僕らの生活に切り離せないインフラである。仕事の連絡手段、移動中のニュース観覧、休憩中のSNSチェック、寝る前のNetflix。技術的革新に賭けた人々の結晶のうえに、僕らの毎日は成り立っている。ネットワークにつながりさえすれば、アカウントという自分の存在を作ることができる。土地を買わなくても、家賃を支払わなくてもいい。ネットに置いた個人情報が境界となって、わたしの居場所を確保する。
インターネットについて特筆すべきは、巨大な記録装置であることだ。これまで組織でしかなしえなかった数の原理を、一個人でも、複数アカウントを作ることで可能になった。また、アカウントの作り手がこの世を去ったとしても、アカウントはインターネットで存在し続ける。
そして昨今のSNSの浸透によって、インターネットは血の通った世界に近づいてきた。
10年前のインターネットは、調べ物をするための巨大な塊でしかなかった。それがいまや、自生する意志が生まれる場になってきている。一人の投げかけから大人数の賛同を集めることもあるし、大人数の総意によって想定外の着地点に向かってしまうこともある。さらには、複製された思想や誰かの目論見によって、物事の真偽に霞みがかってきた。
たしかに以前にくらべれば、リテラシーは低くなったかもしれない。しかしながら、この呉越同舟こそ、僕らの身体があるこの世界と同じである。
この現状を眼前にして、身体表現はどのような価値を生みだすのか。場はある、人はいる。それでは、身体表現に価値を見つけてくれるお客さんはここインターネットにいるのか、そもそも僕ら作り手は、価値を提供できるのか。なぜなら、インターネットに身体は無いからだ。まあ、いい。こうなったら、あとは一歩踏み出すだけだ。
身体表現には2つのおもしろさがある。
演劇やダンスといった表現は、劇場に行き、じっくりと腰をすえて観るのがいい。まとまった時間を特定の場で過ごし、眼の前でおこなわれている営みに感情で享受する。言葉には裏があり、動きには物語がある。
ライブや音楽フェスの面白さは全く逆だ。主役は遠くに見える演者ではない。観客が主役である。僕ら観客という群は一体感を欲していて、演者に求められるのは、観客それぞれの個を解放させて一つにまとめるあげる手腕だ。
それでは、実空間のないインターネットで身体表現の未来はどこにあるのだろうか。表現の伝達構造の変化と、身体表現それ自体の変化、そしてもうひとつ、お金の話。僕はこの3つにおいて可能性を感じるのだ。
正直なところ、インターネットと芸術表現は、これまでちゃんと面と向きあっていないと思っている。例えば、90年代中盤以降のメディア・アートのテーマのひとつに、インターネットにおける身体の喪失がある。現実世界とネット社会の対立項に意味づけをして、批評的な文脈へ導こうとするやり方だ。おおよそ展示してあるのは、インターネットという不可視な脅威に、ハックや頓智で挑むといった皮肉的感傷を誘うものである。
それ以外では、これはなにも芸術表現に限ったことではないけれど、宣伝ツールとしての使い方である。展覧会があります、その宣伝用の映像を流したい。そういうやつ。
僕が志向するのは、もっと素直で前向きな、ただのインフラとしての利用である。劇場や美術館と同じく、発表する場のひとつとしてとらえると、これまでにない新しいなにかが生まれるのではないだろうか。
なお、反論としてはこんな声があがるだろう。
身体表現は、生身の表現であるべきで、なぜなら偶然と必然が混じり合うからだ。そしてそれこそが身体表現の存在価値たりえる。劇場へ足を運び、目前で演者の魂を感じてこそ、身体表現の醍醐味がある、といった意見だ。
目の前でほとばしる身体、それを観る受け手の身体は同調し、感情が高ぶるそのやりとりが身体に染み込んでくる。それは真理である、僕もそう思っている。しかしながら、もうそれは全てではないように思う。
帯域拡張の恩恵によるストリーミングによって、インターネットを介した他者の存在が、身近にそして気軽に感じられるようになったからだ。誰もが発信者になることができる、自分自身がメディアになる時代が加速して久しい。リアルタイムの面白さは、そこらじゅうに散らばっている。
(つづく)
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