展示の客観性は情念を超えるか

National September 11 Memorial and Museumに行ってきた。

アメリカ同時多発テロ事件は、遠くで起こっている衝撃をリアルタイムに感じた初めての経験だった。2001年9月11日あの夜の僕は、横浜でテレビ画面にかじりついていた。何があったかは知っているが、それがどこなのかは知らない。だからこの足で、テレビ画面の先を直に訪れてみたかった。

National September 11 Memorial & Museum

https://www.911memorial.org/

そこには博物館学の執念があった。どうやってハイジャックされたか、その4機には何が起っていたか、そしてどうなったか。亡くなった方々の名前と写真、救護中の消防士の生き様、ひいては実行犯の数ヶ月間の行動記録まであった。写真や映像、テキスト、遺物が、これでもかっていうくらいのボリュームでたたみかけてくる。結構早足で見たと思うんだけど、美術館を出たときは2時間をゆうに超えていた。

これは、僕ら日本人でいうところの原爆資料館なのだ。そう思いながら展示を巡りつつ、一方でそれは安易な決めつけかもしれないと心がささやく。イデオロギーを全然感じない。淡々ある。

正直なところ、過去に原爆資料館に行ったとき、僕は特段深い感傷がわきおこらなかった。むしろ、当時の悲惨さを訴える恨み節のようなものに辟易した。

National September 11 Memorial and Museumに行き、その理由がわかった。それは仕方がないのだ。当時の記録がないから、その場に居合わせた人々の証言や書いた絵がそのまま展示になる。それらにはどうしたって作成者の意志が混じる。

展示の客観性は、昨今の記録メディアの進歩のお陰なのだ。そうだったのかと得心しつつ、僕にとってはナショナリティよりも、テレビ画面を通してここを見ていた同時性を優先していることに気づく。とても悲しい気持ちになった。気力がすっかり参ってしまい、帰りの地下鉄を数駅寝過ごしてしまった。

隣接するワールド・トレード・センター・トランスポーテーション・ハブ。破壊もしかり、創造も人間の意志のなせる業と思わざるにはいられない、力強い建築でした。