文脈の伝達は舞台表現の面白さに成り得ない

NYCでの滞在も残すところあと数日。11月中旬にこちらに来てから、ほぼ毎日なにかを観ている。公演だったり美術館だったり、指折り数えると軽く両手を超えていた。そのなかで、先日観たパフォーマンス「A Gun Show」は、NYCで初めて「これは外れたな」と感じた演目だった。

玉石ばかりのNYCの舞台でもいまいちのものがあるのだと、その混交さに安堵する一方で、なぜ面白くなかったのかを考えている。

「A Gun Show」は、パーカッショニスト達の演奏にメッセージが差し込まれるPerformance Artだった。演奏は素晴らしかった。複数の演奏者によって打音のアクセントが変化していく壮大さは、パーカッションならではだ。ただ、作品の核は、演奏ではなくて銃の価値に対する警鐘だった。

文脈の伝達自体は面白さには成り得ない。文脈は言葉の抑揚にのって僕らに理解を要求する。それが二項対立をともなうとイデオロギーになる。僕はそれに応じることはできるけど、それは僕の想像を超えてはいかない。イデオロギーとはそれ単体で発生した提示ではなくて、既知の側面だからだ。僕は、自分の想像を超えてほしくて舞台の前に座っている。あっと言わせて欲しい。

文脈を伝達する行為は、空間の支配力を記号的な価値の置き換えによって獲得しようとする場合も多い。僕にとっては大いに物足りない。舞台上で男がゆっくりとその一歩を踏み出す様は、どうやっても人類の一歩にはならない、ですよね。

怒りや暴れを持って表現をまとめようとするところにも、安易さを感じてしまった。演者の技量は感情の発露を手の上で転がすところにあって、感情の発露自体にはない。そして発露ゆえの純粋な疲弊を、演者は観客に見せてはならないと思う。

さておき、BAM(Brooklyn Academy of Music)の劇場空間は必見です。

BAM | Brooklyn Academy of Music

http://www.bam.org/

約150年ほど前に造られた劇場をリノベーションして2014年に再オープン。ホールは約850席。温故知新の混ざり具合が絶妙だ。未来世紀ブラジルに出てきそうなスチームパンクさをホールの中まで侵食させて、さらに劇場として機能させているのはなかなかないと思う。