いいものだけ作ればOKってのはまやかし。シン・ゴジラを観て

観てきました、シン・ゴジラ。IMAXが今日までと聞いていてもたってもいられなくて駆け込んできた。敬愛する近藤さん(近藤 和見 @Kazumi Kondo)のFacebookでの熱い投稿に後押しされました。

ずぶりと堪能しました、ブルンブルンと心が脱水機にかけられてしまった。「よくできてる」といった俯瞰的な意見じゃあ、この遠心力に揉まれた心のシワの言い訳がたたない。向こうからやってきたそれが、僕の至極個人的な体験という受容体にグサグサと刺さって、さらにはそれらをガリガリと削りとっていった。返せ、俺のレセプター。

これまでにあった、いろんな現場を思い出しながら観ました。いいものを作ればいいじゃない、ってのはどこのマリー・アントワネットの言葉で、現場はそんな簡単じゃない。人が集まると、いろんなことが起きる。お金なんかじゃなくて、もっと人間の業に根ざした何かが機を動かす。韓信の股くぐりは日常茶飯事で、蹴落としだったり、気に食わない相手との協業だったり、そもそも笑顔は理解の証じゃない。あの渦巻きは日本らしさなんかじゃなくて、世界中のどこにいってもそう出来ていて、それが組織として文化を生み出してきたこの地球の仕組みなんだと思う。

決まる時は決まる。だいたいは信用の度合いで物事はきまるのだけれど、時には誰かの鶴の一言だったり、ゴリ押しの後承認だったりする。そして、共産的営みの影には、僕らが知らないところで、いろんな人が誰かに頭を下げているのだ。

しかしながら、兎にも角にも頭を下げればいいかといえばそれは違う。とてもとても難しいのは、誰かが頭を下げてくれたおかげでチームが気持ち良く仕事に集中できたとはいえ、出来上がったものがいいものだとは限らないってこと。

いいものだけ作ればOKってのはまやかし。「やりたくないことはやらなくていいじゃないですか」と年に三回くらい言われます。それは違う、僕はやりたくないこともやる。やりたくないことをやるのは辛くなくて、これが僕の頭の下げ方だからだ。それよりもなによりも一番辛いのは、それはどうやってもうまくいかないと思いながら、暖簾に腕を押しながら進めていくこと。

まあ、そんなことを思いながらの帰り道。木場駅(109木場は最高のIMAXだよね!)から東西線に乗って、頭をかけめぐる想いを言葉にしつつ(この文章ね!)iPhoneのメモ帳から顔をあげたら、扉上のサイネージ画面でなにかを頬張る楽しそうな石原さとみさんと目が合う。

東京の名所を巡る東京メトロの広告に彼女は出演していて、その一コマだ。その世界もあの世界も全く関係ないのに僕が繋げてしまったのは、勝手とはいえ現世に働いている力なんだと思う。

ちなみに、俯瞰的な視点からの僕の感想は「素晴らしい世代交代のお話」。主役級の役者陣グループがビーム一発で亡きものになるのは、この主題の象徴なんだろう。深く感じ入りました。