日々のほとばしりから市井の美味そして旅のしおりまで
2009年11月9日 4時31分
先週いっぱいは今月23日のパフォーマンスで頭がいっぱいになって文章書けず。遅ればせながら「横浜国際映像祭出品を辞退します。」藤幡正樹氏のエントリーを見ての所感を述べます。
僕は氏本人を直接存じませんが、藤幡正樹氏の率直且つ丁寧な文面にモニタ前でひとり唸りました。一過性の感情を矛に直情的にふるまうご経験を歩んでこられたとは思いませんし、「辞退宣言」を放流した後の、未来を考えられた上でのご姿勢なはず。文面のほとんどはフェスティバルへの期待と現実の乖離からくる今後への足がかりとお見受けしつつ、「あるあるあるーっ」と心に叫ばせたのは下記の部分。
3)海外作家の作品のほとんどはBankArt NYKにありますが、明るいプロジェクターがずらりと並んでいる姿に驚かれると思います。片やフェスティバルの入場券ももらえないで働いているボランティアの作家やその友人がいる一方で、これはどうしたことなんでしょうか。
とどのつまりは予算の組み間違いが回答なのか問題なのかってことなんだろうけど、ホントどうしたことなんでしょうか。実際に作品群を観覧してから物申せ、が筋かもしれません。が、作品は作家の制作環境こそ語りはするものの、展覧会自体について訴えるものではない。「文面を実際に見て」考えた僕の、これまでの経験に沿って一物を述べます。大きくは2点。
まずは「ボランティア作家」の存在について。ボランティア=無償労働という意味なのでしょうが、なにもこれは今に始まった問題じゃなく、そもそも問題じゃない。現代美術、ダンス、演劇等どこも同じだと思いますが、この家業は一般的な報酬なぞはじめから得られません。
僕の知るダンサー数人は、深夜のアルバイトをしながら稽古に通っています。客観的には無益な行為(=ボランティア)に映るでしょうが、そこにあるのは純粋な奉仕心というよりも自己拡張欲からくるひたむきさです。日々の経験を積み重ねて獲得するテクニックや精神性。僕や彼らの間で互いに無知の自己を発見し、理解して作品に精製しようとする自己陶酔からの脱却行為。
とはいえ、時にアルバイトは本番数日前に蓄えるべき集中力を奪っていくわけで、苦労を真の苦しみたらしめる僕の数足のわらじを呪わないと言ったら嘘です。そんな自責の念を払拭するのは「好んでこの道を選んだのだから」という言い聞かせと、「いつか必ず」といった欲望です。
ところで、そんな心意気に便乗し、利用しようとする運営サイドが存在する。これが問題なんだ。
「アンタ好きなことやってんだからお金払わなくてもいいよね」といった彼らの詭弁の一例はコレ。
『無償でのお願いなのですが、告知として有用ですよ』
グラインダーマンはこれで何度苦渋を舐めさせられたことか。
自分が乞われつつも、これは将来への足がかり、今回は種まきだからしょうがないと「いつか必ず」をくすぐるマジックワード。ふと1年を思い返せばいつまでたっても種まきばかり、収穫時期が見当たらない。一体僕はなんの種をまいているのだろうか。この種明かしに気づくまで、5年くらいかかった。
音楽や漫画のようにお金が移動する仕組みがすでにある訳ではなく、三者三様の生き方があるのがこの家業。幾人かの背中を参考にしつつ、甘ちゃんの僕が右往左往してたどり着いたのは、事業主の気概でした。きちんとお金の話をして頂戴しよう、お渡ししよう。成果には報酬があり、それで家賃を払ってトマトを買う。だからお金欲しいって言えばいい、見積もりを書けばいい。
実は、家賃やトマト以上に一番の問題は、作品が貧乏臭くなること。これこそが真の死活問題なんだけど、気づかぬ内に忍び寄ってくる。「サラリーマンがいやだったから」「絵を描くのが好きだから」とかだけでは絶対に続かない。自分の作品のためにも、お金を作る。
パワーバランスからくる弱者への妥協の強要は日常的に行われていることで、それらに対して今の僕には強い反論はありません。むしろ、まずは作家側からお金や処遇に対して意識を変えようよ。その点海外作家はきっちりビジネスしている。
海外作家のほとんどは、作品にテクニカルライダーを持っていると思います。テクニカルライダーとは、作品を上演(展示)する際に必要な、情報一式をまとめた仕様書。舞台作品で言えば、舞台の広さや照明音響映像機材、日程等からスタッフ名簿、連絡先の記載まである、いわば家電のマニュアルみたいなもの。
映像作品のテクニカルライダーについては詳しく存じませんが、他の作品との余白(距離)はこのくらい必要で、プロジェクターは4500Ans以上(もしくは機種名)といった指定があり、それらに基づいて現地のスタッフが設営を行うんだと思います。
どんなに素晴らしい作品でも、隅っこにポツリと展示されていたらやはり目に留まらないわけで、ボロを着てたらやはりボロ、心が錦だろうがボロはボロ。ここは即物的に最大限を求め、作品を生むこと、魅せることを戦略的に分業できるか否かが勝負の分かれ目。よく見せて次につなげたい。そこには「表現行為は無償労働だから」なんて情の介入は無用。作家万人はしっかりテクニカルライダーを書くべき。
少々ズレた例ではありますが、去年シンガポールに行った際、会場である劇場「Esplanade」のオフィスへ打合せにお邪魔した時のこと。そのスタッフの多さに度肝を抜かれました。助成金や協賛金を獲得するための部署だけで20人ほどいるんだもの。こりゃかなわない。
そんな腕のある外国勢の手によるテクニカルライダーから捻出される作品の展示権利費、設営費から展示確認のための作家(スタッフ)のアゴ、アシ、マクラ……すべてを合算すると相当な金額になることは想像に難くありません。それらをふまえて根本的な疑問なのですが、なぜ日本国民が外国人の作品を購入し、紹介するのか。
日本では見ることのできない海外の良質な作品を紹介したい? まぁ考えてみよう、その作品は彼らの国で生まれ育てられたものでしょう。それでは、ここ日本で育ちつつある作家になぜお金をかけないのか。ネットワークの力量を発揮したいから? 異文化交流? なんでそんなに結果を急ぐのか。
僕のウヨサヨ思想云々ではなく、現実的な理由が知りたい。なんだか「間違った”情けは人の為ならず”」を感ぜずにはいられないんです。
じゃあ見積もりを作成し皆で相見積を打診すればよいのか、と聞かれれば現実的にそうとは言い切れないですね。作家間の交流というか、談合可能な横のつながりに期待は持てないし。
誰かの言葉を拝借すると「自らの欲望を形にするためにその環境を作りあげることも、芸術家にとっては大きな実力である」。無償でお願いされたら、それを自分のチャンスと思って参加するか、それとも今回は縁が無かった、次回につなげようと思えるか。結構ドライに判断しないと、自滅してしまう。
数回の打合せを経て「この人は心の底から実現を応援してくれているんだ」といった空気が生まれつつあるとき、僕はなりふり構わずぶっこみます。