日々のほとばしりから市井の美味そして旅のしおりまで
2009年10月7日 15時28分
この肉体は、ひとりでここに来た。この肉体は、見る。聞く。何かを触る。そこから思考の旅を始めた。
産まれ落ちた僕には父と母がいた。家があり食べ物があり、排泄をして生活を知った。躾に従い言葉を覚えて他者とかかわり、何かとお金を交換をして社会という共同体を理解した。時間と共に文明の力が編みこまれ、感覚は拡張されてきた。
だが、悲しいかな僕には産道を出た時の記憶はない。その日が産まれた日だと両親から教えられ、年に1度の祝福があったからこそ誕生日になった。直視すべきは、他者が祝ってくれたから誕生日を知った、ということだ。
時間はずっとさかのぼり、僕の前史よりもっと前、人類の創世記を想像してみる。
「腹減った」
「昨日雨が降ったから今日は河に魚がいるぞ」
「じゃぁあそこに行こう」
空腹感は言葉を持つ以前に我々生物に備わっている感覚だ。彼らはこの欲求を伝えあい、生き抜いた。当時の誰かが子供を産み育てたからこそ今の僕があるわけで、雌雄もしくは親子の共同生活はあった。ひとりでは子孫を作れない、赤ん坊はおっぱいを飲む。
そのやりとりは身振り手振りかも知れないし、「オッホ」「ウッホ」といった発声かもしれない。お互いがなにかのシグナルを発し行動を量る。分り合えるときもあれば、力による服従もあっただろう。いずれにせよ連帯から成る意思疎通はあったんだろうと思う。
それから何世代もの時が経ち、言葉を獲得した。この意思を伝えるには言葉で考えて口でしゃべる。遠くのヒトには手紙を書く。80円で誰かが届けてくれる。今なら携帯電話があり、メールがある。文明は時間と空間を越えた意思疎通を助けてくれる。簡易に、間接的に、そして複雑にもしてくれた。