日々のほとばしりから市井の美味そして旅のしおりまで
2009年9月30日 19時51分
表現とは、すべからく他人の眼が無くして成立しない。
山に篭って器を作り続けるだけでは陶芸家とは呼ばれない。自身が作ったものを第三者の眼に晒すことで、誰かがその物体を器とみなす。だけど、作る現場においては一世一代の器を作ってやろうといった、自らを突き上げる欲求ありきだ。その時その瞬間は、俺の一世一代が出来あがった後に誰がどう思うかなんて考えてもみない。目の前の出来上がりに集中するだけだ。
今回「MUSTANG MONO」の解説を書くことで、僕の「突き上げる欲求」が皆さんの眼に垣間見られれば幸いです。
人智が培ってきた便利に囲まれて、大きな循環の中に自分は在る。
壁の突起を押すとその場が明るくなる、あたりまえのことだ。なぜスイッチを押すとこの電球が点くのか詳しい原理は判らないし、どこから電気が来ているとか、誰がどうやって電気を作っているのか知らない。一本の電話と毎月の電気代を払えばその仕組みは享受できるわけで、心配するべきは電気代のことだ。
そうゆう重なりあった知識の集約の中に僕は生まれてきた。あたりまえの事象と受け入れ育ってきた。時には映画を見て感動し、テレビを見て笑う。自分という個を対象に重ね、委ねて楽しむことも知っている。
映画の感動はチケットを買う対価で得られ、テレビの笑いは差し込まれるコマーシャルのおかげだ。複数の恣意から成る見えない仕組みは大きな力として立ちはだかり、僕にはその詳しいところまでわからなくても良い。得られる満足感や満たされる好奇心で十分だからだ。
意識せずに「知らなくても良い」と選択して、今に在る。だからなのか、時折自ら選択していることも実は誰かの誘導なのではないかという感覚になる。足を運び、見て聞いても自分の感覚にまとわり付くなにか。じっと動かず眼を耳を閉じると過去が追っかけてくる。
だから一切を捨てた。捨てたというか、平坦にしてみた。観念、予想、情、価値。人様からいただいた楽しみや苦しみを一つの箱に投げ入れ、すくってみた。手のひらにはなにも残らなかった。残ったのは手だけ、この肉体だった。