日々のほとばしりから市井の美味そして旅のしおりまで
2008年7月15日 0時06分
さて、長々と続けてきた「MUSTANG Singapore」関連の更新も、そろそろゴールへ。日本へ帰国して3週間が経ち、落ち着いた今思う所懐を、まとめてみました。今回は本文と写真が関係ないので、右脳と左脳でお読み頂きたく候。
海外へ出かけると、いつも思うことがあります。日本では、街のいたるところで自動販売機を見かけますが、外国ではほとんど見かけない。今回のシンガポールでも、自動販売機を見たのは一回のみ。日本の治安の良さや税法上の都合など、自動販売機が多い理由はさまざまあれど、僕がそれに気づく度に強く思うことは、
「日本人の創造欲は高い」
ということです。
外国でたまに見つけた自動販売機のラインナップといえば、コーラ類やスプライトだけ。タバコといえばマルボロ数種類だけ、だったりします。なんて種類が少ない!と思ってしまう僕日本人。
日本では、毎シーズンごとに各社が競って新しい飲料水を発売します。コーヒーひとつをとってみても、「贅沢微糖」「レインボーマウンテン」「無糖ブラック」「地中海ブレンド」「木陰」等々、細かい、細かすぎるよBOSS。ここ日本では、どんどん新しいものが生まれる土壌がある。流通ツールとしての自動販売機の存在を再認識して、そう思うのです。
一方、消費する立場から考えると、数ある中から選択する悦びを知っている、選択する必然を日常的に迫られる国民性でもあります。次々と生まれる新商品の影には、人知れず消えていくドリンクがあることも事実。そのドリンクは、一回性のものか、普遍性のものか。答えは、マスによる消費の方向性(=数字)によって生産者が判断する。我々は意識せずに、淘汰の一役を担っているのです。
強い創造欲に支えられ、短い周期で流転する「数うちゃ当たる」方式。そう考えると、我々日本人の弱点は、時間をかけてコンセプトが練られた物に対しての、抵抗値の低さではないでしょうか。ブランド物が好きな日本人、と言いますが、まったくもって言いえて妙。いわば、「絶対価値」が生まれにくい土壌、だと思うのです。
新しい=良いもの、という公式は、表現する者にとっての苦悩です。新しい=今の時代という意味であるか、ターゲットに対しての歴史の再構築であるのか。
それでも僕はマウンテンデューが飲みたい。叶えられないのであれば、社会に合わせて自分を変えるか、自分で作るしかない。これこそが表現を産む行動原理であるべきです。
人間の中身は一定ではありません。その創造欲をマクロレベルで己の国民性ととらえ、矜持として再自覚できること。これが、僕が外国に行く醍醐味です。