いつか観なおしたい映画『いのちの食べかた』

いつか読みなおしたい本『生活の設計』 佐川光晴につづいて、似た題材を扱った映画として『いのちの食べかた』(原題:OUR DAILY BREAD)を挙げたい。

魚や豚、牛の人工交尾から屠殺、鶏の飼育場、野菜の出荷など、「生きもの」が「食べもの」になる過程を淡々とつなげた映画、いや映像と言い換えたほうがいいだろうか。普段はうかがい知れない日常生活の立役者達、よどみなくヒヨコを運びつづけるベルトコンベアや、そのヒヨコの雌雄を黙々と選別する労働者が活躍する現場が、台詞もBGMも無いシンメトリなカメラワークの先に居続ける。

おおよそ「活躍」という言い方は的外れだ。車の生産工場を想像して欲しい。金属のパーツ類を組みあげ、ガソリンで動く「車」を生みだすスタッフやロボット。彼らには、その創造性を賞賛する意味で「活躍」が相応しい。

一方、本作で取り上げている工場や農場で働く彼らの目的は、生き物を分解し、それら物質の目的を再構築するところにある。その過程で失われる、それぞれの「いのち」に思いを馳せて、僕らは「食べるための収穫」と「生きるための殺戮」の、二律背反の狭間を知る。僕ら人類が富んでいる証しは、この映画を通してその狭間に思い悩むところにあり、この映画が素晴らしいのは、狭間から脱するための明解な答えの押し付けが無いところだ。

作中で印象的で、たぶん唯一の演出といえば、ヒヨコの雌雄を選別するおばさんの休憩風景。おばさんは休憩時間中に、なにかを食べている。口をもぐもぐする。それもあまり美味しそうじゃない、なにかをだ。

慣れた手つきでヒヨコを放る姿と、その食べる行為のギャップは、モンタージュのお手本だ。「生き物の命は大切に頂戴せねばならない」といった、言語にするとあまりにも真っ当すぎて恥ずかしくなるようなスローガンが、静かな構成のもとに抜け目なく訴えられている。

ただ、僕の眼に映る彼らの姿は、どうしても「活躍」だった。

山中にそびえるダムを見上げた時に感じる荘厳さ。叡智の集積によって生み出された、大規模な建造物や工場ライン、大量生産のシステム。それらは便利を矛に突き進む、征服欲のかたまり。人間は図太いく、だからこそ生き残っていられるのだ。

タグチヒトシ
演出家。パフォーマンスグループ GRINDER-MAN代表。最新情報はFacebookにて。2018年2月「SEE SAW」シアタートラムにてパフォーマンス公演。どうぞお越しください。