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グラブロ|GRINDER-MAN代表 タグチヒトシのブログ

社会に適合するために自ら抑制しているわれわれ

2011年10月22日


「ナレッジガーデンvol.3 『ソーシャルブレインズ』 – 関係性の中の脳機能」終わりました。僕自身、総じてとても楽しく、学びが多い時間でした。ご来場の皆さまありがとうございました。ワークショップはいかがでしたでしょうか。

「社会性について」と題された藤井先生のレクチャーから始まった流れが、計らずもその後に控えていたパフォーマンス、ワークショップへと繋がって、独特の熱気ただよう時間だったように思います。

僕は作品をつくるときに、演者に「頭を開く」「ルールの共有」「第三の眼を」と投げかけます。そんな演者の居方こそが、観客の「興味の視線」を引き込んでいくと考えているのですが、言葉足らずでなかなか巧くつたえきれず、やきもきすることがしばしばあります。藤井先生が言及された「社会と脳の関係性」に、そのやきもきをすっきりさせられる糸口を見つられたかもやで、僕の脳には感嘆符が踊りっぱなしでした。

トーク中に藤井先生から紹介がありましたSRシステムで、なにか作りたいと考えています。パフォーマンスになるのか、映像になるのか、いずれにせよ体験系になるでしょう。これから練っていきたいと思います。今後にご期待ください。


  
  

藤井先生のお話のなかで「社会に適合するために自ら抑制しているわれわれ」という意のくだりがありました。ここ数日その言葉が頭からはなれず、僕らが適合させている社会って何だろう、と考えていました。

お酒を飲みたいなと思ったら、どこかに足を運びます。ご飯食べながら誰かと居酒屋で、のんべんだらりとしたい日はコンビニで買って家で飲む。思いつくのは外で飲むか家で飲むかの二通りで、どちらもお金を払ってお酒を買うわけで。

でも、お酒って自分で作ることもできる。それも案外手軽に。ただし、現在の日本ではお酒を自分で造るのは禁止されています。最近は「ビールを家でつくろうキット」が発売されていたりして、民意からの緩和がすすんでいるようだけど、基本的に酒造は免許制で、酒税法という法律によって自由にお酒を製造し、販売することは許されていない。

日本古来の醸造酒に「どぶろく」があります。お米を発酵させて作るお酒で、明治時代に酒税法が施行されるまでは、稲作を営む各家庭で作られていました。現在では、ときどき酒屋で見かけたり、どぶろく祭りやどぶろく特区で飲むことができますが、身近だろうかと問われると、それはどうだろう。

自分で食べるものは作る、だけどお酒は買うものだ、だって法律がそうだから。それじゃあなにか腑に落ちない。自分が口から取り入れるものを自分でこさえるのは、生物の根源的な営みであって、だれかの許可を請う必要はないでしょう。くわえて、自分でこさえたものを食べる歓びは何にもまして替えられないですよね。

お酒は、ヒトの心に作用して薬にも毒にもなりえる食物だから、誰かに製造を任せて品質の管理を託するのが「いい」。何にとって「いい」のか。ここに「社会」が出てくる。

僕にしてみれば、お酒は作れるものだと知るまでは、どこかで飲むか買って飲むか、その2つ以外の可能性を考えられなかった。この世に産み落ちる前から存在する、慣習やルールによって形成された世界にわれわれは生きていて、無意識的にその流れにのっかっている。それが「社会」であり、僕らは誰かの抑制を受け継いで生きているのです。

思うに、受け継がれてきた慣習やルールには、2つの種類があります。

ひとつは、われわれ人間の身体のつくり、感じ方、言葉を獲得する以前から持っている生物としての性質を表した習性の知。もうひとつは、社会を形成するため、持続させていくために必要な決まり事。誰かの恣意が時間とともに大きく膨らんでそうなってしまったものしかり。

右手と左手はどうやら使い勝手が違うらしい。使いやすい方を利き手と呼ぼう、それはどうやら右手が大多数らしい。ここまでが、前者。じゃあ文字は右手で書くように決めよう。右手にあわせたはさみを作ろう。カメラのシャッターボタンは右側にして、自動改札は右側にタッチすることにしよう。これらは後者。

僕の興味が引き寄せられるのは、その「前者」と「後者」の境界で、そこに芸術と呼ばれる表現が存在するんだと考えています。


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